11 倫理という力/前田英樹

もう、文学少女でも長門有希関連でもない。

そして小説ですらない。


だって今日友達から借りたから、ただそれだけで100冊中の11冊目。


倫理学の評論。

実はこういうのを読むのは嫌いじゃなかったりする。

新しい概念を自分の中に取り込むのは、とてもいいことだしね。


ただ、これは肌にあわなかった。

というか、倫理をテーマにした評論って何だろうね。

小説でいいじゃん、とおもってしまう。

人間の本質とは何かを語ってくれる小説なんてたくさんある。


んー、いや、出だしはいいんよ、わかりやすいし。

だけどね、中身のいたるところが気に入らない。

とりあえず、わかりもしないことを断定で書きすぎ、な気がする。

まぁそれはしょうがないのかもしれない、それが「倫理」を語るとき必要だろうし

ただ、わからないものはわからないままにしておいて、無理に分かった気にならないようこ、と学んできた自分としては、肌にあわない。


そして、ところどころ、突っ込みたくなる。

カントでなくてもこの親父はえらい

これとかね、しらねーよ、偉いって何にくらべ偉いんだよ、

それは普遍的に偉いのか?誰が偉いと定めるんだよ。

今まで「道徳観」とか「倫理の原液」とか散々言って展開してたのに、

この断定に関しては言葉遊びなしかよ、即断定かよ 

普遍的な倫理の力の話をしてる中で、自分の中の倫理を基準に物事を断定するなよ

とつっこみたい。


その上、根拠に疑問を持つところがいくつかある。

言語を持った人間は、絶えず自分を説得するという重荷を負わされている。こっそり万引きした人は、万引きしたことで自分を説得する。どんなに無邪気な人間でも、それはやっている。(中略)動物は、こんなことをしなくてよい。獲物を横取りするハイエナは(中略)怒る時は彼の全てが怒ってる。寛いで寝そべっている時は、その全てが寛いで寝そべっている。ハイエナが怒るのではなく、その怒りが全部ハイエナになって爆発しているように見える。

いやいやいや、動物だって、自分を説得することはあるだろ。

少なくとも、イヌやネコを見てたらそう思う。

「これをしたら怒られるかな?」「怒られないかな」「まぁいいやしてみよう」

「わたれるかな?」「わたったらひかれるかな?」「いいやわたっちゃえ」

そういう迷いの傾向は、結構見られるでしょう。

この中で、当然「自分を説得」という思考回路は働いてるでしょう、

じゃなきゃ「迷い」とその「迷い」を打ち消すものは何なんですか。

そして後半、

ハイエナが怒ってる時は100%怒ってるとか、何でいえるんだよ。

ハイエナが寛いで寝そべってる時、全て寛いで寝そべってる?

いやいや、そういう時も回りを警戒してるだろ、動物の本能でもあるし、生きるための術だし。

何でそんなことを断定的にいえるのかなぁ。

ああ、もしかして、そういうのを全く取り除いて「100%寛いで寝そべってる」状態であるとの仮定?

なら、そのままそれを人間に当てはめてみようよ。

「100%寛いで寝そべってる」状態の人間は、その状態でも自分を説得してるとでも?

となると、言葉遊びの段階に突入する。100%で、全てじゃないとは、これいかに。


とまぁ、そんなこんなで色々と反論しながら読んでいって、途中からは流し読み。

今思えばせっかく貸してくれたのに、申し訳ないと思うが、だって中身がねぇ・・・

ああ、貸してくれた本人の評価は聞いてないです、本人まだ読んでない本だったりするんで(


これ読みながら、小説と評論の違いについて考えてたりしてみました。

小説は登場人物の心情に少なからず共感させ、だから読み手をはまらせる、そういうメカニズムだと思うんです。

それに対し、評論は、例を用いて、いかに読み手を納得させられるか、そういうメカニズムだと思うんです。

共感か納得か、「理解を得る」という行く先は同じですが、とる手法が違うな、と

そんなことを考えてみたり。

なので共感させれない小説や、納得させれない評論は糞だと、そう思うんです。


まぁただ単に自分の理解力が足りてないんでしょうね。

じゃなきゃ立○館大学の教授の文章に、Fランの大学生がここまで文句つけるはずがないですし。


明日朝おきて読み返したら ああああ ってなるんでしょうが

眠たいので寝ます(